萬年青の歴史
大日本萬年青聯合會
萬年青美術懸賞大會
豊明園資料11
大日本萬年青聯合會発足
日本萬年青連合会五十年のあゆみより  (昭和五十六年四月発行)
 昭和二年名古屋市を中心としたオモトの大流行のあと、オモト界の一部の識者の間では、「オモトとはなにか」ということが真剣にかんがえられるようになり、論議の末、「江戸時代以来連綿と続いてきた伝統園芸の高尚な趣味で、実益を伴う健康の増進と精神修養にある」、ということになり、今次のように、一部の策動によって投機の対象物とするようなことは厳に慎み、萬界の堅実な発展が強く叫ばれました。
 その方策の一つとして、水野淳治郎氏(愛知)が、「全国のオモト愛好家が連帯意識を高めて一体となって楽しめる組織が必要である」、と説き、加えて、「全国各地で、それぞれの会や組などの団体が開催している大会は、規模が小さい割には経費が嵩み、愛好家にとってもたいへんなことで、これを年一回、全国のどこか一ヶ所にまとまって大会合した方が得策である」、とも説きました。
この提唱に、まず、颯田清作氏 (愛知)が共鳴し、水野氏が全国的に、颯田氏が地元愛知県下を中心に、それぞれ分担を決めてこの運動を展開して奔走し、各地の有力なオモト愛好家の力強い賛同を得ることに成功しました。
 そして、昭和六年二月十一日、水野淳治郎氏の呼びかけに応じて、愛知県名古屋市大須の常盤館に、当時有力なオモト愛好家であった石川三之助(愛知)をはじめ、石川六兵衛(愛知)、市野利平(奈良)、伊藤八郎(福岡)、大浜義明(愛知)、加島庫松(愛知)、神田源一(愛知)、榊原純平(愛知)、榊原清市(東京)、颯田清作(愛知)、関根銀作(愛知)、田村佐市(京都)、恒川保太郎(愛知)、および平野秀夫(愛知)、の諸氏が集まって、(大日本萬年青聯合會)の発起人会を開きました。
 そして、昭和六年二月二十二日、愛知県岡崎市の料亭花屋において、オモト愛好家多数の出席を得て、「大日本萬年青聯合會」の発会式を盛大に行ない、ここにめでたく発足しました。
 なお、席上、発起人に一任された役員の選出を、後刻、水野淳治郎宅で行い、つぎの通り決定しました。
 すなわち、会長に石川三之助、副会長に市野利平ならびに大浜義明、会計に伊藤利三郎ならびに恒川保太郎、書記に加島庫松の諸氏をそれぞれ推し、、事務所を名古屋市南区1番割の恒川保太郎氏方に設置しました。
 「大日本萬年青聯合會」は、以上の経緯によって発足し、毎年一回、各地を巡回して「萬年青美術懸賞大會」を開催することとしました。

  その第一回の大会を、設立総会をも兼ねて、昭和六年十二月十一日と十二日の両日、愛知県名古屋市港区の南陽館で開催することにしました。
 ところが、この年九月十八日に、満州事変が勃発し、戦火が拡大していったために、これを中止しなければならなくなりました。
 そして、実際には、翌昭和七年二月十一日と十二日の両日に「第一回全国萬年青美術懸賞大會」と銘うって、初めて全国的な規模の大会を開催しました。
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